1995年1月17日火曜日

生い立ち

1997年1月17日(火)午前5時46分 あの忌まわしい地震が宝塚にも襲いかかり、死者118名、家屋の全半壊約2万世帯という悲しい被害を残してゆきました。
このとき、宝塚には全国から大量の救援物資が届くと同時に、大勢のボランティアも全国から集まり救援活動に携わってくれたのです。





遠くから来たボランティアの人たちは体育館に泊まり込み、そして宝塚とその近隣のボランティアの人たちも毎日まいにち市役所に通って、様々な救援活動をしました。







例えば、全国から届く救援物資の仕分け、下着は下着、飲料水は飲料水、と細かく仕分けてから避難所に届けられていきます。






また、地震で瓦がずれた屋根にはブルーシートを掛けなければなりません。こんな危険な仕事もほとんど素人ばかりのボランティアがしました。

他にも、カーボランティア(車での送り迎え)、仮設風呂の管理、壊れた家の簡単な修理や片づけ、避難所での炊き出し等、様々な仕事が大勢のボランティアによって成り立っていたのです。



そして2月にはいると第一次の仮設住宅が完成し、避難所生活から仮設住宅の生活へと変わっていきます。(最終的に宝塚では1700戸の仮設住宅が建ちます。)

2月28日ボランティア解散。全国から集まったボランティア達はそれぞれの故郷に帰っていきます。これからは宝塚とその近隣の市民とで支えていかなければなりません。仮設住宅もどんどん完成し、仮設への引っ越し手伝いもあります。

仮設住宅ができて避難所生活も解消と安心していたら、思いも掛けない問題が発生したのです。仮設住宅は入り口の段差が高く、老人や足腰の弱い人にとっては危険な住宅だったのです。

ボランティアセンターの職員からボランティアの方に仮設の手すりを付けてくれないかとの要望がありました。その時、「いっそうのこと手すりだけでなく他の大工仕事のボランティアもしたいなあ」という人がいて、他の人にも声を掛けたのです。幸い20名ほどの人たちが集まり、名前も 日曜大工ボランティア「でえくさんず」と決まりました。そして「でえくさんず」は「震災以外でも困っている人があればどんなところにでも駆けつけよう」ということになったのです。

これが「でえくさんず」の生い立ちです。そしてこの日から仮設住宅での 手すりの取り付け、入り口の段差解消、棚の取り付け、などなど「仮設住宅改造奮闘記」が始まるのです。